危ういトリックスター 前編

「…はぁ」
カリカリと滞りなくアメフト部の日誌を書きながら、まもりは今日何度目ともつかないため息をこぼした。滑らかに動く右手とは反対に、表情はやや硬い。
「姉崎先輩、大丈夫ですか?何か悩みごとでも…」
後ろで資材の片付けをしていた後輩マネージャーが、浮かない顔でため息を吐き続けるまもりに心配そうに訊ねた。
「…え?あぁ、えっと、あと半年くらいしたら卒業だから、そうしたら全然違う生活になるんだなぁと思ったら寂しくなっちゃって」
ため息は無意識だった。とはいえそれほど吐いていたのかと思い至って咄嗟に理由を誤魔化した。嘘ではない。半分は。
「あーそうですよねー、言われてみたら確かに。全然考えてませんでした」
 後頭部をかきながら苦笑する後輩に、まだ二年なんだからあなたはそこまで焦らなくていいわよ、と返しながら、うまくかわしたことにそっと安堵した。実は人生について深刻に考え込んでいるなどと、まだ初々しさの残る後輩には重すぎて言えなかったのだ。
 今は8月。最京大で過ごす最後の夏だ。まもりは首尾よく内定も決まり、部活と単位取得に注力すればいいだけだった。のだが。卒業後に新生活が始まる、と改めて考えたら、徐々に溜まっていった恋人との関係のモヤモヤと、親からの今後の人生についての電話が合わさってモヤモヤが靄に変わってしまった。頭の内側の靄が晴れない。いやむしろ、新生活がこの靄を晴らすチャンスなのではないか。 先程のやり取りですっかり話題がそれて、それにうまく相槌を返しながらまもりは別の思考に没入した。
大学入学時から同棲している悪魔の事だった。
 一緒に暮らして約三年半、付き合いだけで言えば高校入れて五年半、部活から日常生活からほぼ同じ時を過ごしている。良く言えば穏やかに、悪く言えば事務的に。部活に行けばコーヒーを入れ、家に帰れば食事を作る。授業の空き時間はデータ整理をして、部活が終われば練習内容を洗い直す。
…これは世に言うカップルなのだろうか。余りにルーティンワークになりすぎて、なんの感慨もなくなってきている。最初の内は頼られてるとか信用されてるとか、そういった類いの何かがあったが、ここまで来たら最早空気だ。あって当たり前。やって当たり前。…この靄を祓うには、これは思い切って環境を変えるのが得策なのではないか。
そこまで考えて。
「おい糞マネ、コーヒー」
「はっ、はいっ!」
突如聞こえた聞き慣れた声に反射的に大声で返事をしてしまった。ガタンと大仰な音をたてて立ち上がる。
「…またしょうもねぇ事でも考えてたのか」
過剰な反応をしたまもりを蛭魔は部室に入りながら一瞥して、近くのイスに腰かけパソコンを開いた。その様子を、まもりは立ち上がったままの体制でじとりとした視線を送ると、踵を返して給湯室へと向かう。
「…どうせしょうもないことですよ」
ほとんど息同然の細やかな独り言だったが、蛭魔の良すぎた耳はきちんと全てを聞き取った。
「…あ?」
 蛭魔の返答は給湯室に消えていったまもりには届いていない。チッと小さな舌打ちをこぼしてここ最近のまもりの様子を振り返る。この二週間、明らかにまもりの様子がおかしい。それは当に気が付いていたが理由はわからないままだった。今までも時折そんな事はあったが、二、三日もすれば元に戻っていた。だから今回も様子を見ることにしたのだ。
しょうもないこと。
大体の理由はこれだった。蛭魔にしてみたら些細な、しかしまもりには重大な事で悩みに更けるとああなる。ため息が増えたり、機嫌が悪くなったり、リアクションが大きくなったり。だから放っておいたのだが。
いくらなんでもこれは長すぎるだろ。
知らず知らずの内に蛭魔の眉間に深いシワが寄る。気晴らしにガムを口に放り込んでみたが、いつもより苦いような気さえした。カタカタとキーボードを叩きながら、また舌打ちをこぼす。

「…フー。蛭魔、姉崎さんと何かあったのか」
「テメェにゃ関係ねぇだろ糞赤目」

部室に戻ってきていた赤羽に背後から話しかけられて、振り返りもせずに答えた。
「彼女は何かに悩んでいるようだが」
「知ってる」
「相談には乗ったのか」
「んな必要はねぇ。ほっときゃ治る」
そこまで話して、赤羽はフーとため息を漏らしてギターを掻き鳴らした。やや呆れているようにも聴こえる。
「そうやって高をくくっていると手遅れになる」
「…知ったような口きいてんじゃねぇ」
あからさまな不機嫌を眸にのせて、振り向き様に睨め付ける。周りが一瞬で凍りつきそうな視線だったが、赤羽はまるで意に返さず続けた。
「君が思っているほど彼女は単純ではないよ」
「…おい、テメェいい加減に」
「はいヒル魔くんコーヒー。あ、赤羽くんもコーヒーいる?」
「フー…俺も頂こうかな」
 いよいよ蛭魔から殺気が飛ぶかというタイミングで、コーヒーを持ったまもりが給湯室から出てきた。蛭魔の言葉はまもりの登場にかき消されて、そのまま不穏な空気も薄くなる。苦虫を噛み潰したような顔をして、蛭魔はコーヒーを啜りながら給湯室に戻ったまもりの背を見送る。
どいつもこいつも何なのだ。知ったような口をきく糞赤目も、眼を合わせようとしない糞マネも。
腹の底で渦巻いた澱みは、ちょっとやそっとでは晴れそうになかった。これは本腰を入れて動かないと碌な事にならない気がする。そう考えながら残りのコーヒーを飲み干した。

* * *

買い物に行きたいから先に帰るね。
そう蛭魔に言い残してまもりは帰宅途中にスーパーに寄った。正直二人きりで残るのが気まずい。先に帰ったところで結局住まいが同じなのだから大差ないのだが、気持ちの問題だった。

しょうもない。

 ボソリと呟かれた蛭魔の言葉がまもりの靄をいっそう濃くした。昔はもう少し気にしてくれていた気がする。気落ちしているときは側にいてくれた気がする。そういえば多少の言葉と解りにくい態度で示してくれていた。でも最近はどうだろう。思えばアメフト以外の会話はしていない気がする。気落ちしていても悩んでいてもさっきの様な態度だ。もう慣れきってしまったんだろうか。それとも面倒だと思われているのか。今回は我ながら長く拗らせているとは思うが、蛭魔が気にする素振りはない。ふと二週間前の母親との電話を思い出す。

『卒業した後、ヒル魔くんとはどうするの?いつまでも学生じゃないんだから、きちんとケジメはつけなさい。』

 そう、どうするつもりだったんだろう、私は。同棲した当初は全てが目新しくて、毎日がキラキラしていたのに。卒業後もずっと一緒に生きていく気さえしていたのに。嫌いになった訳ではない。でも好きという気持ちを忘れている。一回離れてみたら、あの悪魔の良さも分かるようになるかもしれない。

別れるのならば、就職のタイミングが、いいのではないか。

 具体的に「別れる」事を考えたところで、手にレタスを持ったまま一瞬固まる。それから一つ深呼吸をしてレタスをかごに入れた。仮にそうだとして、悪魔に何と切り出すか。面と向かって話したところで有耶無耶にされるだけだろうし、こっそり引っ越ししたとしてもすぐに見つかりそうだ。ましてや内定先も知られてしまっている。もう頑なに別れてくださいと連呼するしかないのだろうか。
…そもそも、別れたいほど嫌なのか?
今日最大のため息が腹の底からこぼれ出た。時間がないのに未だに躊躇っている。いずれにせよ戦うにしても相手が悪すぎる。とりあえず小手先でもいいから作戦を詰めておこうと、買い物を終えて帰路についた。

* * *

 まもりが帰った後の部室で、蛭魔は今後のプランを練っていた。様子がおかしくなったのは二週間前だ。その頃に何があったのか。少し考えを巡らせて、すぐに思い至った事があった。まもりの内定が決まり、親へ報告の電話を入れていたのがちょうど二週間前。
…これだ。恐らくその時に何か言われたのだろう。
眼が眇められ、眉が顰められる。同棲が決まった時に、まもりの実家に挨拶にいった。そこで卒業後の予定についても話した筈だった。卒業後は国内に就職して同棲を継続するつもりであること。その時は改めて挨拶に向かうこと。そこまで考えて気付いた。挨拶に行って以来、まもりの両親と接触を図っていないことに。まもりが小まめに連絡を取っていたのを見て、接触を取った気になっていたのだ。もし二週間前からの異変が、前兆ではなくカウントダウンだとしたら。二週間よりもっと長く燻っていたものだとしたら。そしてそれをまもりが母親にこぼしていたとしたら。
「糞…!」
 蛭魔はギリギリまで眉根を寄せて、忌々しげに天井を仰いだ。自分の失策だった。何故こんな簡単なことに今まで気が付かなかったのか。そんな不安や不満を抱えた娘をそのまま同じ環境に置いておこうとは思わないだろう。心配から出た言葉をそのまま投げかけるのも当然なのだ。そしてそれについて、真剣に悩むことも。事は思いの外深刻だったと判断してパソコンを操作する。
こんなことで、手に入れたものをむざむざ手放すつもりはないのだ。
 理解が早く、なんでもそつなくこなす。観察力もあり、ベンチから的確な情報をもたらす。人の機微にも聡い。面と向かって蛭魔とやり合うくらいの度胸もある。ただ自分の事に関しては極端に鈍感だった。自分の感情も、周りからどう見られているのかも。そして頑固で、芯が強い。だからこそ周りに染められることなく居続けている。だから蛭魔は興味を持った。そして欲しくなった。あの鈍感な女にその感情を自覚させることができるのなら。あの無垢な女を自分の色に染めてしまえたなら。そう思うと、試合を目の前にしたような高揚感があった。それに勝つために知力を尽くして女に自覚をさせ、自ずから進学先を最京大にするよう仕向けた。そしてやっと同棲までこぎ着けたのだ。勝利後の充足感、満たされる独占欲。面には出さずとも、躰の底で感情が入り乱れているのがわかった。
そこでふと、パソコンをタイプする手が止まる。
その後はどうした?何か行動を起こしただろうか。同棲を始めてからこれまでの間に。ヤることはやっていた。一緒に出かけるくらいもした。じゃあ、他には?

…釣った魚に餌はやらない。まさしく、それの通りだったのではないか。

 人間は、勝ちか負けで決まるような単純なものではない。手にいれた達成感で満たされてしまった。肝心なのはその後だったのだ。側に居る安堵感に流されて、今の生活に慣れきってしまっていた。だから今までこれといったアクションを起こさなかった。相手の気持ちを確認することさえ。

しょうもないこと、では無かったのかもしれない。

 舌打ちをする気も起きずに苦い苦いため息が漏れた。タイプを再開しながら挽回する策を練る。余りに信用し過ぎていたのかもしれない。否、ただの甘えだったのか。口内に苦いものが広がる。渋面のままチラリと時計を見やりEnterキーを押せば、派手な色のロケットベアの壁紙が画面に表示された。まもりのパソコンをクラックしたのだ。今の時間であれば家に着いたあたりの筈だ。そのまま食事の支度に取りかかることを考えれば当分パソコンを触る時間はない。大学入学後はレポートやエントリーシートの作成に必要になり、まもりも随分パソコンの扱いに慣れていた。だから、パソコンにさえ侵入できれば粗方の情報は入手することができる。人の気も知らない能天気な熊に眉間のシワを更に深くしながら、めぼしい情報を探す。カタカタと操作を進めていく内に、一つそれらしいフォルダに突き当たった。そして中身を確認して。
今度こそ蛭魔は盛大な舌打ちをしながら、右手でその鋭い双眸を覆って天を仰いだ。

『君が思っているほど彼女は単純ではないよ』

赤羽に言われた言葉が、頭蓋の中で木霊した。

***

 カレーの具材を煮込みながら、まもりはぼんやりと今後の事を考える。就職先、転居先、蛭魔との関係、自分の気持ち。
自分はどうしたいのだろうか。
蛭魔からの言葉を待っているのではないか。
 だから、結局決めきれずにここまで先伸ばしにしたのではないか。内定承諾書の提出期日が明後日に迫っている。今日決めてしまわなければ、色々と手遅れになってしまう気がした。実は蛭魔には内定承諾書を出したと言ってあった。腹が決まれば水面下で内定辞退を申し出て、まだ残っている他社の面接にかけようと思っていたのだ。蛭魔相手では再内定先の企業が発覚するのも時間の問題だろうが、それでも第一希望の企業の内定を辞退するくらいの覚悟があることは証明できる筈だ。内定が決まれば候補の中から家を決めて、転居の準備をしてから蛭魔に別れを切り出す。
…果たしてそんなにうまく事が運ぶのか。それに、そこまでして、自分は縁を断ち切りたいのだろうか。
 蛭魔がまもりに関心がないように見えるのは、空気のような扱いになっているのは、果たして蛭魔だけのせいなのか。自分も、無意識にそうしていたのではないか。ごちゃごちゃした思考の中で、忘れていた数日前のアコとの電話を思い出した。

『まも…それってさぁ、倦怠期ってやつじゃない?』

 別件でかかってきた電話とはいえ声を聞いた安堵感から愚痴をこぼしたら、言われた言葉がそれだった。飽きたり、慣れたり、ドキドキがなくなるとそうなるらしい。
当てはまりすぎてドキリとした。
ならば抜け出せたら付き合い出した当初のような関係になるのだろうか。でも、どうやって?うーん、とまもりは悩みながら時計を見た。いつも帰ってくる時間をいくらか過ぎていた。少し気にはなったが、どうせ蛭魔の事だ、心配するだけ野暮だろう。
…もしかして、これが慣れって言うのかしら。
再びうーんと唸りながらサラダを盛り付けていると、玄関から鍵が開く音がした。